見ることを徹底的に手放して、今日もうまくいかなくて、途方に暮れて、いつもの夕暮れ。静寂の中に鹿の鳴き声、凛とした空気に土の匂い、いつの間にか解けていたブーツの紐をきつく結べば、髪がなびく、木の葉が舞って、そこに私は風をみる。太陽は西には沈まずに、闇=暗いではない。時間は過ぎていくものでもないことも、初めてこの眼で知ることばかりで、森のなか独り、眼を閉じる。まぶたの内側は眼球を覆う外側でもあるなんて、いままでそんなことも知らなくて、ゆっくりと、時間をかけて、「見る」ことを、一枚ずつ、放棄する。持ち帰ったフィルムを現像すれば、そこに顕れる色の濃淡は、今まで網膜には、一度も開かれたことのない自然界の姿で、レンズを通して映し出された像は、結局のところ粒子のかたまりにすぎず、それらは光によって結ばれているわけだから、やっぱり物には本質なんてない。そして写真とは、紙切れ一枚の物質に過ぎず、この現実を写し出す虚像でしかないはずなのに、そこには、現実よりも「ほんとう」の姿が写っているように思えて、私の眼は暗い暗室の中で、静かに喜び始める。定着液から印画紙を取り出し、素早く水で洗いながす。水面を揺らぐ一枚の紙切れを見て、思わず眼を閉じた。写真は、現実を写し出す虚像でしかない、と当たり前のようにさっき口をついた私の言葉は、この光の粒子を写し出した物質の前では、どこまでも無力だ。眼の前の紙切れを揺らす水の流れを、眼を閉じたまま、見続けていたら、現実でさえも虚構でしかないのだからと、私の眼は再び混乱し始める。現実さえも虚構で、この世界は見えの総体でしかないのなら、ここに写っているものは、写真とは一体何なのか。肉眼の知覚を棄てようと試みた瞬間の私の意識と、もう一つの現実との出逢い。私という存在もすべての一部で、いつかの還る、あの場所のような。この光はすでに古いのに新しく、もう過ぎ去ったのにここにあって、どうしようもなく懐かしい、「いま」に触れ得る、意味の、てまえ。