日曜日の朝は、少しだけ時間をかけて朝ご飯をつくります。週末しかほとんど立つ事のない小さなキッチンの窓から差し込む朝の光の中で、パンを焼いたり、卵を割ったり、林檎を切ったりと簡単な朝食をつくります。手が込んでいないにも関わらず、出来上がるのに途方もない時間がかかるのは、すぐ目の前の林檎や卵が持つ色彩や形状、匂いや肌触り、そして当たり前のことだけど、それぞれに重みがあるということにただただ感動して、いつの間にか冷蔵庫からフィルムを取り出し、果物ナイフの代わりに手にはカメラを持っているからです。 ひとしきり眼と手のひらで愛でながら、ひとつひとつの林檎や卵の肌理に触れながら、匂いや重さを確かめて、それぞれがそれぞれに持ち合わせている曲線を撫で続けていると、眼の前にある林檎が、林檎でないような、卵が卵でないような奇妙な感覚におそわれます。 秋の日曜日の澄みきった朝の光に充てられて、物体そのものが当たり前のような顔をして「在る」、ということの不思議さが、一瞬身体中を支配して、林檎や卵やパンたちに、「ほんとうの僕らには、到底辿り着けないよ」と、告げられているかのような、小さな音のざわめきが確かに聴こえて来るのです。そして、「辿り着けないよ」と、最後の文字が放たれたその時、即ち私が、林檎を林檎として、パンをパンとして、認識する事なく「見る」ことが出来ないということを悟った時、どうしようもない程の無力感が、哀しみを伴ってひとつのぼやけた形として立ちあがり、確かな質量までをも携えて、そろりと眼の前に横たわるのです。 このどうしようもない深い「哀しみ」は、きっと、「言葉」と関係している。そのことはもうすでに知っている様な気もするけれど、この哀しみの正体や、在るということの真意は未だによくわかりません。もし私が、「言葉」で世界を分断し始める以前の、あの幼い頃にまで遡れたのならば、限定されることのない「ほんとう」の林檎やパンや、卵の姿に出会い直す、ということが出来るのだろうか。でも、なにはともあれ、私はいまここにいて、時間だけは、もう絶対的に、戻らないのだ。そんなことを考えていると、生きて在るこちらの時間だけが、いま、眼の前でキッチンに差し込む光そのものとして、あたかも見えているかのように満ちていき、いつの間にかもう、部屋の中は午後の陽射しで溢れています。 遅すぎる朝食か、昼食かもわからないパンや卵をほおばって、コップの中の水を飲み、繰り返される日曜日の、その一番新しい日々の真ん中で、ただぼんやりと窓の外にある風景を眺めてみました。自分の思考に追いつかれてしまうそのまえに、なんとかしていまのここに、留めておきたい物たちのその様相を、ただただひたすら追い求めてみました。そして、「見る」ということのひとつの在り方をすくいあげてみました。 沈黙のまっただ中で、繰り返し交わされた私と物たちとの静かな対話は、予期せぬひとつの出来事として、紙切れの上に定着されたように思います。そしてこれらの写真は、ありふれた日常のなかの、わずかな瞬間にだけ立ち顕われる、親密な時間を想い起こさせてくれるものとなりました。